フランス革命と近代 ターム・ペーパー秀作



永世中立という道を選んだスイス  (工学部1年)

目次

序章 永世中立の実態
第1章 第2次世界大戦とスイス
第2章 第2次世界大戦における永世中立の効果
第3章 永世中立の定義
終章 スイス永世中立の今後の展望と日本国憲法第9条


序章 永世中立の実態

 国家生存の目的を領土の拡張とした軍事国家日本は第2次世界大戦後解体させられ、それに代わる新たな国家像が求められた。時のGHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーが「日本は東洋のスイスたれ。」という談話を発表したことが大きな契機となり、スイス・モデル国家論が巷に流布することとなった。しかし、1960年の日米安保条約改定の頃からは現実政治に直面し、中立化議論も次第に衰退していく。議論が衰退していく中で、日本の内部でのスイスに対する考え方に変化が見えはじめる。スイスを理想的に見るのではなく、矛盾に満ちた、その現実を見る態度である。永世中立の裏側にはそれを支える軍事力があり、「中立=平和」という等式は成立せず、武装中立によってこそ永世中立が成り立っている、という武装中立の厳しい現実が伝えられるようになった。

 ここで、この議論の導入として永世中立の実態を具体的に示そうと考える。スイスは他のどの国でも存在しない「国民皆兵制」を実行している。これにより兵役に適するすべての男子は徴兵される。兵役義務年限は20歳から50歳まで(将校は55歳まで)であり、女性は婦人補助兵役に志願することができる。スイス国防軍は職業軍人というよりは民兵によってつくられているといえる。兵士は例えば、20歳から32歳の間は精鋭部隊に属し、3週間続く訓練を8回受ける、というように短期間の集中的な訓練を兵役が終わるまでに通算1年間になるように何年かに分けて繰り返しており、それ以外の期間は他の仕事をしている。余談だが、軍隊での階級が上がるにつれて社会的な信頼度も高くなるという。

 スイス国防の原理は「国が選んだ永世中立」という大前提に基づいている。すなわち、スイスは攻撃を受けたときにのみ軍事行動をとる。そのために戦闘は領土内で行われるので、国を防衛するためだけに戦うことになる。領土と領空を防衛する際には、スイスは国際法の義務をきちんと履行する。また、国防の重要目的は武器に訴える前にできるだけ長く自由と独立を維持することにある。そのためには、スイス国防軍の能力が諸外国から侮りがたい手ごわいものと認められるように防衛力を強化、充実しておく必要があり、それによって潜在的侵略者がスイスに攻撃を加えることを思いとどまらせることも必要である。

 スイス軍兵士は個人装備、武器、弾薬、ガスマスクを家に保管し、兵役期間外にも射撃訓練が義務付けられている。兵役につかない年にはゲマインデ(注1)ごとに行われる武器、装備の検査を受け、合格しなければならない。兵役終了後、一般的には兵士は民間防衛にあたる。なお、戦闘開始により兵士の招集が宣言されてから短時間に国境を封鎖し、大人数の部隊が編成できるシステムが確立されているという。行動しやすい自転車部隊などが存在することもスイス国防軍の特徴のひとつである。

 以上の通り、永世中立を保つことは並大抵なことではない。日本が戦後模索したスイス・モデル国家論は非武装中立を前提としたものだったが、現実的には武装中立でなければ永世中立は成り立たないといえる。以下ではまず、具体例としてスイスが最も危機的状態に陥った第2次世界大戦でのスイスを取り上げる。この戦争でスイスがどのようにして武装中立を貫き、功を奏したのかを検証し、武装中立の意義を唱える。次に、この大戦中にもたらした永世中立の効果を検証し、永世中立の意義を併せて唱える。さらに、そもそもの中立の定義について考え、永世中立の意義を改めて考える。最終的には永世中立を選んだスイスが今後世界に対してどのような役割を果たすことができるのかを考える。


第1章  第2次世界大戦とスイス

 独墺合邦の後、ドイツは翌1939年にチェコスロバキアを占領し、ポーランドへも侵攻した。これに対してイギリスとフランスは対独宣戦布告を発し、ヨーロッパを舞台にした第2次世界大戦が勃発した。スイスもドイツによるポーランド侵入の4日前に臨戦態勢を整え始めていた。臨時連邦議会が召集され、連邦政府は国境警備のために軍隊を集めた。その2日後には、臨時議会は非常時にのみ任官される「将軍」(注2)に、フランス語圏ヴォー出身のアンリ・ギザンを選出し、同時に、国土と国の経済的利益を守るために連邦政府に全権を委ねた。伝統的な連邦主義の原理を一時的に棚上げし、危機に直面して実質的な中央集権体制を築き上げた。翌日には臨戦態勢に入り、戦争に向けて奔走するヨーロッパ諸国に対して、戦争勃発の際には武装中立の立場をとることを宣言した。ドイツ軍のポーランド侵攻が始まると、翌9月2日にはスイス政府は総動員令を発し、43万人が兵役についた。しかし、ドイツの侵略は拡大し、1940年5月10日には3中立国ルクセンブルク、ベルギー、オランダに攻め込み、瞬く間に全土を占領した。侵略者の前に中立の御旗は何の役にも立たなかった。それどころか中立確保を名目に中立は破壊されていった。スイスは第2次総動員令を出したが、独立は風前の灯だった。その後、イギリス軍がダンケルクを撤退し、フランスの敗北は確定的となった。6月10日にはドイツの勢いに便乗したイタリアが参戦し、瀕死状態のフランスを南から攻撃し、4日後にはドイツ軍はついにパリ入城を果たした。

 フランスの敗北、イタリアの参戦によってスイスは完全に四面楚歌の状態に陥った。スイスと国境を接する国がすべて一方の陣営に属することになってしまった。スイス政府はドイツに順応するか、最後まで中立を標榜して抵抗するかの最大の岐路に立たされていた。一方で軍隊の士気も失われていた。ギザン将軍は7月25日に全部隊をリュトリ(注3)の地に集結させ、作戦報告をした。その作戦が「レドゥイット・プラーン」だった。「レドゥイット」はフランス語の「レドュイ」であり、城中の砦を意味する。当時のスイスは四方を完全に敵に包囲された状態にあった。したがって、戦争突入の場合は四方八方から敵軍に攻撃を受ける状態にあり、国境線を維持することは最初から不可能だった。そこで、ギザンは戦端が開かれたときには最初から平野部の防衛を放棄し、アルプス山塊の中で抵抗しようとした。峻険な山岳ではドイツの機甲部隊も平坦なオランダ、ベルギーのように効果的に活躍できないし、空からの攻撃も有効ではなかった。逆に、訓練の十分でないスイス民兵でも山岳でなら百戦錬磨の兵に対抗できる。ギザンの意図はスイス攻撃がいかに時間を要し、損得勘定の合わない行為であるかを敵側に明確に示すことにあった。同時に、国民に対しては徹底抗戦を促し、愛国心を燃え立たせることに成功した。

 ギザンの「レドゥイット」計画は二重の意味で効果があった。まず、精神的に内部から崩壊することを防ぎ、なおかつドイツ軍にスイス攻撃を後回しさせたことである。ドイツ軍のスイス支配の目的はベルリン=ローマ枢軸を強化し、ヨーロッパ南北の交通の要所アルプス越えの交通路を確保することであった。しかし、ザンクト・ゴットハルトとシンプロンの2つの重要なトンネルが爆破されれば結局スイス占領の意味は無価値となってしまう。ドイツは損得勘定を考えスイスを後回しにし、イギリス攻撃を先決とした。こうして、第2次世界大戦における最大の危機をスイスは武装中立を貫徹することによって乗り切ることができた。

 ここまで、事実を淡々と述べ、スイスが史上最大の存亡の危機といっても過言ではない第2次世界大戦において、どのようにして中立を守ることができたのかを述べた。スイスの起伏に富んだ地形がスイスを存亡の危機に救ったともいえるだろう。また、スイス外交が自国を救ったことも事実だろう。しかし、中立を保つことができた最大の要因はやはりスイス史上に残る英雄アンリ・ギザン将軍を中心とした一貫した武装中立の体制にあったといえる。第2次世界大戦以降、スイスの武装中立が功を奏した事例は見つからない。また、近年、少なくともヨーロッパ内においては「中立」であることは無意味になりつつある。しかし、永世中立を保つためには武装中立が功を奏していることは事実だと考える。序章でも述べたが、軍隊は抑止力として重要な存在なのだ。前述の第2次世界大戦での事例はまさにそれを物語っているといえる。


第2章  第2次世界大戦における永世中立の効果

 第2次世界大戦で永世中立がもたらした最大の効果は祖国防衛だけでなく、多くの人命や多くの才能を救ったことも挙げられると考える。第2次世界大戦中のスイスでは、軍籍者を中心に30万人に近い亡命者を受け入れていた。その多くは別の安全な国に逃れたが、終戦時の1945年5月に11万5000人がスイスに居住していたという。

 救われた多くの才能のなかには偉大な物理学者アインシュタインや文豪トーマス・マンがいた。正確に言えば、アインシュタインはギムナジウム時代を過ごしたミュンヘンが嫌でチューリッヒの連邦工科大学(ETH)に進学することを目的としてスイスへ移住しているので「救われた」という言い方はできないかもしれない。一方、トーマス・マンについて言えば、間違いなく彼はスイスに「救われた」といえる。マンはナチスの台頭直後から反ナチスの立場をとり、スイスへ逃れている。その後スイスを経由してアメリカへ移住するが、戦後ヨーロッパへ戻ることとなった。マンは東西に分裂した祖国ドイツへは帰らず、スイスを永住の地として選んだ。アインシュタインもまたスイスからアメリカへと移住し、後年はプリンストンで永住権を得ることとなるが、終生スイス国籍を手放さなかった。彼はスイスを「政治的自由、寛容、平等が守られているからいつでも安心して逃げ込むことができる国」と評した。これはスイス賛美であって、永世中立を賛美するものではないかもしれないが、戦時下においてもこのような状況が保てたことは、やはり永世中立がもたらした恩恵というべきだろう。確かに、レーニンのように安全なスイスへ潜伏し、祖国の革命運動を扇動していたという事実もある。多くユダヤ難民が押し寄せたが、受け入れられなかったユダヤ人も多かった。また、多くの政治的迫害による亡命者を抱えてしまった結果、亡命者の過剰流入を抑制する動きもある。しかし、スイスという永世中立国が存在しなければ、もっと多くの犠牲者が出たかもしれない。したがって、第2次世界大戦において永世中立がもたらした効果は大きかったということができる。


第3章  永世中立の定義

 最後に、そもそも永世中立の定義とは何なのかを考える。スイスのジャーナリスト、ピエール・ベガンは中立を次のように定義する。

 中立はドグマ(教理)ではなく、戦争行為に対する積極的参加を放棄するひとつの政策である。スイスでは中立政策を数百年来実行してきたが、これが世界に公式に認められたのは1814年のウィーン会議、1815年のパリ条約以後のことである。同条約では「スイスの中立と不可侵性、およびあらゆる外国勢力からの独立はヨーロッパ全体の政治的利益に合致することを正式に認める」ことが承認され保障された。その成立理由は二つある。すなわちヨーロッパの勢力均衡の切り札として役立つこと、そして州の結合を保障することである。以来、中立は継続的に維持され、独立という目的を達成する最も有効な手段である。中立は連邦の任意的な行為がもたらしたものだから片務的でかつ永世的なものである。そのため、平和時における国の政治行動を抑制して国を戦争に巻き込む可能性のあるすべての行為を禁止する。中立は軍によって守られており、専ら防衛的で同時に能動的な軍に依存している。中立国は大国ブロックのひとつとなんら協定を結ばない。しかし、中立国は個々の事件に対して自己に有利と思われる中立国独自の政策を行う自由はいつも留保する。

 ピエール・ヘガンによる中立の定義を見て、私は二つのことを考えた。

 まず、永世中立は都合のいい政策であると同時に、もっとも独立国にふさわしい政策だと考えた。しかし、ヘガンの言うとおり、これはスイスの自己中心的発想に基づくものではなく、ヨーロッパ全体が利益を享受するためのものだと考えることもできる。

 次に、中立を維持するためには、やはり武装中立が不可欠だと考えた。

 1815年パリ条約でスイスの永世中立が公式に認められた時点においては、ヨーロッパ全体の利益の享受が目的だったが、国際関係が強化された現在においてヨーロッパ全体ではなく、世界全体の利益の享受のためにもスイスの永世中立は意義のあることだと考える。そして、その永世中立を保つためにも、武装中立が必要だと考える。


終章  スイス永世中立の今後の展望と日本国憲法第9条

 私は第1章〜第3章において、主に二つのことを主張した。ひとつは、武装中立あってこその永世中立であること、そしてもうひとつは世界全体の利益を享受するために、スイスの永世中立は必要不可欠な存在であることだ。

 「世界全体の利益」という表現は抽象的なので、少し説明したいと思う。「世界全体の利益」を具体的に言い換えると、「平和」である。永世中立国は世界のどこかで対立が起これば、常に間に入って仲裁が行える国である。例えば、韓国と北朝鮮はいまだに対立関係にある。6カ国協議では、両者の仲介役として、アメリカ、日本、中国、ロシアが参加しているが、冷戦構造が解体したとは言え、アメリカ・日本は韓国側に、中国・ロシアは北朝鮮側につく傾向が見られる。このように4者それぞれの利害関係が交錯しているために、なかなか話が進展しない。しかし、スイスのような永世中立国はどちら側につくこともなく純粋な第3者として仲介することができる。多くの人種がこの地球上に存在している限り、対立が起きないことはありえない。たとえ仲介役が存在しても対立が完全に撲滅されることはないだろう。しかし、人間が共存共栄するためには解決できる対立問題はなくなるべきだ。その仲介役としてスイスのような永世中立国が必要であり、永世中立国は「世界全体の利益」とも言うべき「平和」に寄与する存在であると私は考える。

 最後に、二つのことについて考える。ひとつは永世中立国スイスが今後果たすべき役割について、もうひとつは日本国憲法第9条についてである。

 まず、スイスが今後果たすべき役割について考える。これまで述べてきたとおり、永世中立を維持することは難しい。序章で述べたが、スイスにおいては国民皆兵であり、なおかつ国民男子は20歳から50歳にかけて兵役義務を果たさなければならない。スイスは国民皆兵により常時60万人の兵士を招集できる体制が整えられ、永世中立が保たれている。たとえ、自国の国防のためであるとはいえ、スイス一国にかかる負担は大きい。そこで私は、今後スイスはこれまで以上に国連やスウェーデンなどの他の永世中立国との協力関係を強化するべきだと考える。スイスは長い間、中立の定義に背くということで国連への参加はそれほど積極的ではなかった。しかし、国連は確かにアメリカを中心とした性格が強いが、これまで全世界で内紛の停戦を仲介するなどの多くの実績を持っている。スイスと国連の協力関係が強化されれば、両者の利点を活かすことによって世界各地で起こっている戦争や紛争などを解決する処理能力が高まる可能性があると考える。スイス人の伝統を重んじる保守的な姿勢は自国にとっては重要なことかもしれないが、現状を考えれば、スイスは世界に対してさらに積極的に貢献すべきだと考える。

 次に、日本国憲法第9条について考える。私が今回この論文を書くに際して驚いたことには、スイスの国防軍と日本の自衛隊が重なって見えたことである。もちろん、両者の性質は異なる。スイスの国防軍は民兵によって構成されており、永世中立を保つという列記とした大義名分を持っているのに対し、日本の自衛隊は戦力の保持を一切認めない日本国憲法第9条に違反する、あるいはしないで長年議論が途絶えないほどの曖昧な存在である。しかし、両者には共通点がある。それは、両者の目的が共に祖国防衛にあることである。前述で私は武装中立あってこその永世中立であると主張した。序章で述べたとおり、スイスにおいては問題を平和的に解決するために、国防軍を相手に対する抑止力として位置づけており、軍隊はあくまでも最後の切り札という立場にある。しかし、逆に言えば軍事力という抑止力がなければ、問題を平和的に解決できないということもできる。日本は平和憲法を掲げている。この考え方は平和憲法に合致するものと私は考える。戦力不保持が必ずしも平和に結びつくとは限らない。私が主張したいのは憲法第9条を改正して、自衛隊を合法的軍事力として位置づけるべきだということである。自衛隊が果たすべき役割は、他国を攻撃することではなく、あくまでも祖国防衛にあるのだから合法として認められるべきだ。第9条の改正に際して、韓国や中国が反対するだろう。しかし、この問題は日本固有の問題であって、他国が議論に参加する余地はない。いずれにせよ、自衛隊の曖昧な立場が今後も続くことだけは避けられるべきことだと私は考える。




序章(注1)ゲマインデとは市町村にあたる概念だが、日本の自治体のように市・町・村の類別はない。
第1章(注2)将軍はスイス史上において4人しか存在しない。
第1章(注2)リュトリはスイス建国の記念の地である。スイス最古の年代記によればウーリ、ウンター・バルデン、シュビーツの3邦の代表がこの地に集まり、ハプスブルク家に対抗するために相互に助け合うことを厳かに宣誓しあったとされる。歴史的事実としては疑問があるが、スイスの危機の時は常にこの「リュトリの誓い」が想起されてきた。


参考文献

森田安一「スイス 歴史から近代へ」刀水書房、1988年
笹本駿二「私のスイス案内」岩波新書、1991年
笹本駿二「スイスを愛した人びと」岩波新書、1988年
ピエール・ベガン「スイスの政治制度」スイス貿易開発事務所、1970年
森田安一「物語 スイスの歴史 知恵ある孤高の小国」中公新書、2000年
シャルル・ジリヤール「スイス史」白水社、1954年
U・イム・ホーフ「スイスの歴史」刀水書房、1997年
田口晃・矢田俊隆「スイス・オーストリア現代史」山川出版社、1984年